第一話 どさんこナース海を渡る!

看護の道に進もうと思いはじめたのは中学時代。

祖母の入院で知った看護師の仕事、そして町役場で働く父親から「町の保健師さんの活躍」について聞くうちに、看護の仕事に憧れるようになり、まず看護師の資格を取ろうと進路を決めたのです。

 
高校を卒業後に、親元を離れ看護専門学校に進学。
看護学校は厳しく大変だったけれど、看護師を目指す仲間と、よく食べ、よく学び、精神ともにたくましく、大きく成長しました。
そして卒業論文のテーマは、助産師を目指す友人とともに「妊娠中の乳頭の手入れについて」に決定。

産科外来に学生コーナーを設置してもらい、妊婦健診にきた20週以降の妊婦さんに対して、妊婦さんの乳頭チェックをし、手づくりのリーフレットを渡し、お手製のおっぱいの模型を使い、妊娠中の乳頭の手入れについて伝えることを論文にまとめました。

3年間の寮生活を経て看護学校を卒業し、そして岩見沢労災病院へ看護師として就職。

そこで配置されたのは、じん肺や、肺がんの末期の方が主に入院している呼吸器系の一般病棟。
そこは、次々と患者さんが亡くなっていく医療の現場でした。

目の前でおこる死を見届けること、悲しい気持ち
生きること、死を迎えること、「死」と向き合う葛藤の日々から逆に、生きるための学びや命をつらぬくことの尊さを知り、この分野の学びを深めたい衝動に駆られたのです。

 
「病気にならないことに力をおいた保健師」
「命を迎える助産師」

この資格をとるために再度受験をすることを考え、悩んだ末に、仕事をやめて保健師と助産師の両方の資格を取れる学校への進学を決めました。

 
まわりの友人は結婚したり、母になったりで退職する中、私は24歳の春に、徳島県立看護専門学校保健師助産師科に入学しまた学生となりました。

この学校の魅力は、助産師のカリキュラムをこなしながら、保健師のカリキュラムも学ぶことができ、両方の資格が得られるというところ。

法律が変わり、今は学校も閉校となってしまいましたが、今の私に繋がる原点が、この学校で学んだ濃厚な1年にあると思っています。

 
学校のカリキュラムはとても特徴的で、通常の保健師や助産師になるための基礎的な講義はもちろんのこと、

例えば、
「新聞1枚で、家で赤ちゃんをとりあげる授業」や「助産院での貧血予防の調理実習」「会陰切開をしない助産介助」「お産の介助では陣痛が弱い人には足湯、冷え取り」といった授業も講義のほかに盛り込まれ、80歳の開業助産師の講義を受けることもありました。

徳島県は気候も人もとても暖かく、北海道から来たにせものの徳島弁を話す私にもよく「ようきたな~」「いけるで~(大丈夫?の方言)」と声をかけてくれました。

 
こうして、私のおじいちゃん、おばあちゃんの故郷でもある四国は、私の大好きな第二の故郷ともなったのです。

海を2つ渡り、いろいろな覚悟を胸に、北海道を遠く離れた地で、再び私の学生生活がスタートしたのです。

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